ある日の長男との会話(募金・飢死・西欧批判)

 朝食時だったか、長男が「世界で子供達が死んでいるけど、お父さんは子供達のために募金はしないのか?」と聞いてきた。私ははっきりと「募金はしない」と言った。

 募金については非常にいやな思い出がある。一部の人間だと思うが、今でも象徴的な出来事だと思っている。大学時代、今から約30年前、国立大学の学費は非常に安かった。安いとは言っても県外に出れば下宿代は必要だし、結構な出費になる。家は兄弟3人で末っ子の自分だけが大学に行かせてもらった。家は島根から炭鉱に出てきたので、当然貧しかった。小学校、中学校と欲しかった自転車も買ってもらえなかった。どこかから父が貰ってきたぼろ自転車に乗ったりはしていたが。友達が乗っていた変速機付や速度計付の自転車が羨ましかった。昭和37年頃だったか、テレビで不二家のルックチョコレートの宣伝をしていた。一度食べてみたいと思っていたが、結局、買ってもらって食べた記憶が無い。かなり大きくなって食べたことがあるような気もするが。現在でも店頭にこのチョコレートと同類のものが置いてある。家が貧しいのを何となく小さいときから認識しながら育った。

 私が大学に行けたのは、国立大学があったから行けたのである。高校時代から大学は国立にしか行けないと認識していた。父親は子供のうち一人くらいは大学と言うところにやってみたかったようである。同級生で担任から東大に行くことを薦められた生徒がいた。しかし、彼の家も炭鉱出身で貧しく、東京で暮らす生活費を出せないとの理由で地元国立大学に行った。

 大学に入ったら、マンションからマイカーで通学する生徒もいた。その当時、200万円位したのだろうか、スカイラインジャパンを親から買ってもらって乗り回していた下級生の女子学生もいた。一方、こちらは、畳が3枚だけ、本当に3畳の間借り生活。ここに机と本棚を置いたら、残りの空間は2畳。ずっと四畳半に住むのが夢だった。

 その当時、文部省は国公立と私立大学との格差是正との名目で国立大学の授業料を段階的に上げていくことを決めようとしていた。当時、私はまだ、大学の寮にいたと思うが、寮の活動として繁華街で国立大学の授業料値上げ反対の署名活動をすることになった。貧乏人でも大学に行く機会を確保するには授業料値上げに反対するのは当然と考えていたので私も街に立って署名活動をした。

 署名活動中、少し暇な時間を見付けて、近くで何かの募金活動をしていた女の子に署名をお願いしに行った。その女の子は、やっぱり大学生で私に質問してきた。「授業料はいつから上がるんですか?」と。私は、「このまま行くと○○年から上がるはずです」と答えた。するとその女の子は指折り数えて何と次のように言った。「○○年からだと私には関係ないので署名しません」と。

 私は、それぞれの人間が自分の考えで署名しないことを非難しない。しかし、募金等のボランティアをしている人間は少しは社会のことを考えているものと思っていたらこの発言。結局、自分さえ良ければ、それで良いと考える人間ではないか。もっとたちが悪いのは、この人達はボランティアを自分の優越感、即ち、人の為に活動してやったと言う満足感を味わうために利用しているだけではないのか。この辺から募金とか、ボランティアに対する不信感が生じてきたのは事実である。そして、現在も続いている。

 私は、子供によく言ってきた。「世界中に飢えて死んでいる子供達がたくさんいるのに、食べ物を残してはいけない。」そのことと子供の命を救う事は話は別である。なぜ、子供達が犠牲になっているのか、その根本原因を考えなければならない。仮に飢えで死んでいる子供達の命を全て救えたとして、次に来るのは何か。人口増大による更に酷い飢えや内紛、虐殺ではないのか。

 そもそもアフリカの地に資本主義はふさわしかったのか。欧米人はキリスト教を前面に押し出して、自分達の考え方だけが正当で、その他は野蛮または未開の考え方として、その技術力を背景に世界を支配してきた。アフリカがアフリカ古来の文化と伝統に根付いた生き方をしてきたら、現在のような状態にはならなかっただろう。

 ルワンダとスーダンの違いも良く分からなくて申し訳ないが、ツチ族とフツ族の内紛もベルギーの植民地時代の意図的な民族区分が関係しているらしいではないか。世界中で内紛の武器は誰が売っているのか。子供達が犠牲になっている地雷は誰が売ったのか。不発弾で子供達が犠牲になっているクラスター爆弾は誰がどこで使用したのか。そう言う事に目を瞑って子供の命を救いましょうと言っても駄目だろう。欧米人はボランティアに精を出しているらしいが自分たちが原因を作っておきながら、その原因に目を向けずに、ボランティアの善人づらをしても通用しない。日本のテレビでも「愛は地球を救う」とか馬鹿げたことを言っているが、愛だけでは地球を救えないから今のような世界になっているんじゃないか。愛よりも金が大事な人間がたくさんいて、そいつらが世界を動かしているから今の世の中になったんだよ。そいつらは、非常に頭が良いから、愛よりも金が大事なんて絶対言わないが。

 私は募金もボランティアも嫌いだが、ユニセフには時々募金している。また、自分の知識と技術が役立つなら世界のどこかで一生のうちの一時期を人の為に使う事が出来たら良いと思っている。ちょっと自信が無いのだが。

(2006年9月18日記)

TOPページに戻る